《「町中華」と私》ノンフィクションライター・北尾トロさんとのライブトークに寄せて

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北尾トロさんと、オンラインライブトークのお知らせ(事前お申し込み制・無料)

光栄なことに、4月16日(土)日本時間19:00〜20:30の1時間半、ノンフィクションライターの北尾トロさんとオンラインでライブトークさせていただくことになりました。

北尾トロさんのご著書『夕陽に赤い町中華』の中国語版『歡迎光臨町中華:昭和時代最懷念的味道』刊行を記念して、日本の東京・日本橋にある「誠品生活日本橋」さんのご主催で、オンラインライブトークが開催されるというものです。

↓ 『夕陽に赤い町中華』(集英社インターナショナル)

安くてボリュームたっぷりで、昭和の胃袋を満たしてくれた町中華。
なぜかクセになる味、個性的な店主たち。
そんな町中華が姿を消しつつあることに危機感を覚え、町中華探検隊を結成したのが北尾トロ。隊長として数百軒を食べ歩き、昭和の食文化の歴史と魅力を追った。
闇市から始まった店、アメリカの小麦戦略や化学調味料ブーム、メニューが豊富な理由、のれん分けや屋号の分析など多角的に町中華を描き切った1冊!

出典:集英社インターナショナル公式サイト(https://www.shueisha-int.co.jp/publish/夕陽に赤い町中華

椎名誠さん推薦!
「そうだ。おれたちはこんな黄金ラーメンでぐんぐん育ってきたのだ!」

歡迎光臨町中華:昭和時代最懷念的味道/夕陽に赤い町中華
(左)日本語電子書籍版『夕陽に赤い町中華』、(右)繁体字中国語版『歡迎光臨町中華:昭和時代最懷念的味道』

↓ 台湾で出版された繁体字中国語版 『歡迎光臨町中華:昭和時代最懷念的味道』(出版:馬可孛羅文化事業股份有限公司、翻訳:林詠純)
台湾版Amazon「博客來」で紹介されているページはこちら
https://www.books.com.tw/products/E050122108?loc=P_0041_003

歡迎光臨町中華:昭和時代最懷念的味道
私は、小池アミイゴさんの新刊とともに、台湾の紀伊国屋書店で購入!
歡迎光臨町中華:昭和時代最懷念的味道
紀伊国屋書店さんに平積みされていました。
歡迎光臨町中華:昭和時代最懷念的味道
紀伊国屋書店さんにて。
先日たまたま訪れた、大溪という場所にある独立書店『天井逅書』にも平積みされていました!感激。
先日たまたま訪れた、大溪という場所にある独立書店『天井逅書』にも平積みされていました!感激。
大溪老街にある人気の独立書店『天井逅書』
大溪老街にある人気の独立書店『天井逅書』

北尾トロさんとのライブトークは無料ですので、ぜひお気軽にお申し込みください!

北尾トロさんとオンラインライブトーク

↓ 詳細・お申し込みはこちら
https://seihin0416machityuka.peatix.com/view

当日は、「日本と台湾の“町中華”は、いったいどんな風に違うのか?」とか、「それぞれの楽しみ方」などをお話しする予定ですが、この機に、「町中華」と私の、思いがけないご縁について書いてみたいと思いました。

「町中華」と私のご縁

北尾トロさんは、下関マグロさんらお仲間の皆さんと「町中華探検隊」を結成して、日本各地の町中華を食べ歩き、雑誌への寄稿や、テレビやラジオなどへのご出演などで発信されています。町中華関連の書籍も数々出版されています。

「町中華探検隊」のウェブサイト
https://machichuka.com/

私は今回、北尾トロさんのご著書『夕陽に赤い町中華』(集英社インターナショナル)のほか、北尾トロさんが下関マグロさんらとの共著で出版された『町中華とはなんだ 昭和の味を食べに行こう』(角川文庫)の2冊を拝読しました。

はじめのうちは、トークイベントでしっかり話せるようにとの思いで読み進めていたのですが、途中から何度も湧き上がる疑問をついに抑えられなくなりました。

「私が人生で初めてバイトしたあのお店って、もしかして町中華だった?」

町中華とは、なんとなく、東京や大阪などの都市部にあるものなのかと勝手に思っていたのですが、私が中学3年の1年間と、高校3年間を過ごした小さな町にも、それはあったのかもしれない、という疑問でした。

今回のトークイベントではこの点については触れることはないと思うので、この部分はブログに書いてみようと思った次第です。

(許可を取って書いているわけではないので、細かい場所が特定され、どなたかにご迷惑がかかってはいけないので、ぼかして書きます。)

私は高校1年生、15歳の夏休みに、1ヶ月ほどニュージーランドにホームステイに行きました。AFSという団体を通して行ったのですが、そのプログラムには日本全国から同い年くらいの高校生が参加していて、田舎でくすぶっていた高校生の私は、大きく刺激されました。

ホームステイから帰国すると、私は自分の英語力をもっと磨きたいと思ったし、またすぐに海外に行きたいと、アルバイトをすることに決めました。

自宅からの通学路上にあった、入ったことのない中華料理店に、「パート・アルバイト募集」という貼り紙があるのを目にして、しばらくあれこれ考えた後、ついにそのお店のドアを開け、目があったお店の方に「バイトをしたいんです」と、言いました。

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面接などもなく、「じゃあ今週末から入れるかな? 土曜日の10時に来てみてね」と言われて、私の人生初のアルバイトは始まりました。

実は、私はその町に中学3年に上がるタイミングで越してきたばかりで、友達も少なく、自分とその町に距離を感じていました。高校に上がる時には、もともと住んでいた水戸の高校を受験し、片道1時間くらいかけて通学していました。

そんなわけで、高校に入ってからも相変わらずその町と私の間には距離があったけれど、アルバイトを始めてから、そのお店を中心に、少しずつ町に知り合いができていきました。

中華料理店のオーナーは、「マスター」。
お店は家族経営で、マスターの家族はお店の2階に住んでいました。奥さんは、とても奥ゆかしくて可愛らしい方でした。

お店には私以外にも数名のパートさんがいて、皆さん全員が、近所のベテラン主婦。お米の研ぎ方や、定食に添えるキャベツの千切りの仕方を優しく教えてくれました。ただ、あまりの私の料理センスのなさに、その作業を頼まれることはほぼなかったけれど…。苦笑

常連客で仲良しの通称「博士」は、確かトラックの運転手さんだったような…。いつもお店の前を通る時、すごい音でププー!とクラクションを鳴らして行く姿がかっこよかった。

お店が工業地域にあったので、工場の寮暮らしの社会人や、近くに大学があったので、一人暮らしの大学生たちと、地元の家族連れや、ママさんバレー的なスポーツ帰りの方々が寄ってくれるようなお店でした。

台湾の街角で
(こちらの写真は台湾の街角で撮ったもので、文章と関係ありません)

思えば、初めてできた“社会の中にある居場所”だったのかもしれない

小学校のブラスバンド、中学校の吹奏楽部、友人や彼氏など、それまでも居場所はありました。
けれど、学校の外を出た“地域という社会の中の居場所”という意味では、その中華料理店が初めてだったのかもしれません。

一緒に働いているみんなは私のバックグラウンドを知らないし、私もみんなのことを知らない。家庭背景や年齢も大きく違う。
でも、お店に来てくれたお客さんたちに「束の間の外食を楽しんでもらえたら」という思いで働いていたと思います。

今思っても、初めて働いた場所があのお店で本当に良かったなと思ったりしています。
東京に出てから、ちょっと高級なレストランでアルバイトしてみたりもしたけれど、「いらっしゃいませが居酒屋っぽい」と笑われたこともあるくらい、あんまり合わなかったのを覚えています。どうも、私にはあのお店がいちばん合っていたのだなと思います。

町中華でバイトして学んだこと

腱鞘炎になりながら重い中華鍋を振り、お店の料理をメインで担当していたのは、ほかでもないマスター。
奥さんやパートのおばさまたちは、餃子などのサイドメニューや、定食の盛り付けなどを行うという業務分担でした。

マスターや奥さんたちが長年かけて練り上げてきたメニュー構成には、たくさんの知恵が詰まっていました。
たっぷりの肉野菜炒めが乗せられている味噌ラーメンは、お店の人気メニューで、その肉野菜炒めは、そのまま「肉野菜炒め定食」という別メニューにも応用されていました。

マスターは、確か横浜の中華街かどこかで働いたことがあったらしく、サンマーメンなど特徴のあるメニューも取り扱っていました。
レバニラ定食やマーボー定食も人気だったけれど、作るのに手間がかかるので、マスターに聞いてみて、大丈夫な時だけオーダーが通るという仕組みでした。

あのアルバイト経験があったから、レストランがメニューを提供するときの大変さというか、頭の使いどころのようなものがぼんやりとインプットされたように思います。

覚えているのは、私がバイトを始めたばかりの頃、「もやしそば」を注文された白髪のおじいさんがいて、同時に他のお客さんが頼んだ「もやしそば」が何杯かできたから、その中から適当にひとつ持って席に届けようとした時、マスターがすかざず「弥生子、あのお客さんは麺やわらかめだから、こっちね」と、私に指示をしてくれたことです。
そのおじいさんは常連さんで、いつももやしそばを頼み、そのお店ではいつも、おじいさんが何も言わなくても、「麺やわらかめ」のもやしそばが提供されていました。

ひどいミスをしても、叱られたことはなかった

とても居心地が良いバイト先だったので、私は高校3年間、金曜の夜と土日の日中、そこでバイトを続けました。
マスターも奥さんも、ほかのパートの皆さんも、お客さんも、本当にいい人たちでした。

私は、その中ではかなりの問題児だったと思います。

つまづいて卵をたくさん割ってしまったり、お釣りを間違えたり(しかも、かなり長い期間、間違えていました)…。

マスターたちは絶対気がついていたはずで、
どちらも今では信じられないようなミスですが、叱られたりすることはありませんでした。
ただ、それが逆に申し訳なくて申し訳なくて、その分を取り返せるよう、懸命に働こうという気持ちになったのは覚えています。

ある時は、慰安旅行にも

そんなとんでもない私でしたが、職場の慰安旅行にも連れて行ってもらいました。
リムジンバスを貸し切って、東北あたりまで一泊旅行に行ったような気がします。
お店は家族経営だったので、マスターのご家族と、お店で働いていたパートさんたち、そして常連さんたち皆で行きました。
パートさんたちはお給料から天引きで、コツコツ旅行用のお金を貯めていたようでした。
でも、高校生だったからなのか、私だけはなぜか、あり得ないような金額で連れて行ってもらっていたように記憶しています。

地元を離れ、東京の大学へ行く私にマスターがくれたはなむけ

高校3年生で、なんとか無事に東京の大学に合格し、実家を離れることになった私は、寂しいけれどバイトも卒業することになりました。
一人暮らしを始める私に、マスターは、お店でチャーハンの作り方を教えてくれました。

その時、マスターは確かにこう言いました。
「工場の寮に住んでいる若いお客さんたちは、ボリュームがあってガツンとしたものが食べたいんだ。塩も多い方が美味しく感じる。
でも、よく来てくれるお客さんには俺は塩を少しだけ減らしてるんだ。やっぱり健康でいて、長く通ってほしいからね」

お店の火力がハンパないのと、中華鍋がめっちゃ重いので、私が一人暮らしを始めた狭い部屋についていたIHキッチンでは、とてもお店と同じようにはできなかったけれど、ものすごく嬉しかったのを覚えています。

そして、バイト最終日には、お店で使っているのと同じだという中華おたまや、お店で使っているプロ用のタレをたくさんくれたのです。

本当の家族ができたように嬉しかったのが、昨日のことのように思い出されます。

そして…このイベントのおかげで知った、超絶嬉しい事実

そんなこんなで、今回の北尾トロさんとのライブトークのテーマである「町中華」には、私もなかなかのゆかりがあったのでした。

それで懐かしくなって、かつてのバイト先だった中華料理店の名前をインターネットで検索してみました。

実は以前にも、日本帰省時に立ち寄りたいなと思って検索したことがあったのですが、Googleマップには「閉店」と書いてあり、「もうあの場所は無くなってしまったんだ」、「もうマスターたちに会うことはできないのか…」と、残念に思っていました。

でも今回は、北尾トロさんのお本を読んで、私の中での町中華が盛り上がっていたこともあり、もうちょっとしっかり検索してみました。

そして、「今は二代目の方が継がれて、違うお店になっている」という情報を見つけたのです。

「え、え! 二代目ってもしかして、息子さん? でも、『息子さんは学業が優秀だから中華料理屋は継がないんだ、このお店は俺でしまいだ』って、マスター嬉しそうに話してたから、違う人が居抜きで入ったのかも」

はやる心を抑えながら、関連情報を探します。すると…

見つけたのです。違う名前で、内装もリニューアルして営業している、あのお店を。

お店を継いだのは、本当に、マスターの息子さんでした。

そして、ネット上にこんなひと言を見つけました。

「お店を継いだ店主さんの隣で、いぶし銀の先代と思われる方が、指導していました」

ーー「いぶし銀、間違いない、マスターだ!」と、読んだそばから、涙が止まりませんでした。

インターネットのおかげでもありますが、北尾トロさんのお本がなかったら、そして今回のイベントがなかったら、私はここまで念入りに調べることはなかったと思います。

今度、日本に帰れたら、家族を連れて、食べに行きたいと思います。

北尾トロさんのお本にも書いてありましたけれど、町中華というのは、おいしさを求めていくというよりも、それだけではない吸引力があるように感じます。
私は人生初のアルバイトで、その吸引力の秘訣に直接触れることができて、幸せだったなと思います。

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