司馬遼太郎のライフワーク『街道をゆく』、最終章「台湾紀行」読了

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街道をゆく (40) (朝日文芸文庫) 街道をゆく (40) (朝日文芸文庫)
司馬 遼太郎(1997/05)

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「ふるくは国主なき地」だった台湾は、その後スペイン・オランダ・日本・そして大陸からきた“外省人”に支配され続けた。「奇跡」を経て、“本島人”の国 になりつつある変革期の台湾を歩き、「国家とはなにか」を考える。シリーズ最後の海外紀行。巻末に李登輝総統との特別対談「場所の悲哀」を収録
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敬愛なる司馬先生のライフワーク『街道をゆく』シリーズの最終章。
何度も台湾を訪れ、現地の人々と交流を重ね、
台湾を離れてもなお、この国のことを考えている強い思いが伝わってきます。
紀行文とはいえ、
李登輝氏との交流の様子も織り交ぜられていたり、
先住民時代からオランダ統治下、鄭成功全盛期、日本統治期、
そして「光復(台湾では、日本の敗北による台湾の栄光の回復を指す)」から
現代に至るまでの歴史が分かりやすく紹介されています。
この「光復」ということばは、台北市内の地名にもなっていて
私はさっそく想像を膨らませながら、「光復路」を歩いてみたりしました。
また、客家の歴史、下水道が整備されるまでの道のりなども書かれていて、
台北での暮らしに、より深みを与えてくれました。
この全392ページを読み終えると、
この国と日本の間には、
歩みよる努力さえ怠らなければ、
(自分なりに歴史を理解する努力も必要になるけれども)
何か手を取っていけるのではないかと思ったりします。
大切に手元に置いておきたい一冊となりました。
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[心に残った7節]
※本書より引用
漢数字を数字にしております。難解だと思われるルビをカッコで記載しました。
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 日本時代は、太平洋戦争の敗戦で台湾を放棄するまで50年つづいた。私は日本人だからつい日本びいきになるが、余分な富力をもたない当時の日本がーー植民地を是認するわけでないにせよーー力のかぎりのことをやったのは認めていい。国内と同様、帝国大学を設け、教育機関を設け、水利工事をおこし、鉄道と郵便の制度を設けた。
 戦後、台湾は中華民国領になった。
 大陸でやぶれた“中華民国”が、1949年、国家そのものを台湾に持ちこんできた。しかも、台湾島はいまなお“台湾省”のままになっている。
 その間、政治的不条理のなかで住民はよく働き、日本とならんで外貨準備高は世界のトップクラスというまでに高水準な経済社会を築いた。
 本来、“流民の国”だったものが、ここまでの社会をつくった例は、アメリカ合衆国の例以外、世界史にないのではないか。
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 悲しみのみが、時間をこえて人間の伝承を伝えるものらしい。
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 諸辞書によると、数奇の奇は、本来、人が一人という意味だったらしい。
 奇に対して、耦(ぐう)という文字がある。古代中国では、耒(すき)を用いて田畑を耕すのは二人でやる。その二人組の光景を一文字にしたのが、耦である。さらに意味がひろがって、偶数(耦数)ということになる。
 奇とはもともと一人で耕している。“耦ナラズ”という意だという。耦が普通なら、奇は普通ではない。だから数奇という。この場合の数は、運命という意味で、二字で尋常ならざる運命ということなる。
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 蒋経国(しょうけいこく)は、1985年12月、おどろくべきことを公言した。「蔣家の者が権力を継承することはない」というのである。私の放棄というべき宣言だった。その翌々年、「台湾(ここ)がやがて本島人(あなたたち)のものになる」と発言し、内圧を低くしようとした。
 おなじ年の7月、40年に近い戒厳令を解除し、その月に「私も台湾人だ」とさえ公言した。その翌年の88年1月に死んだ。
 蒋経国は、死の4年前に後継者を用意した。
 後継者は歴とした台湾人(タイワニーズ)で、おだやかな学者である李登輝氏だった。これを、副総統にした。
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  李登輝さんは、即座に反応した。
「ーー権力を自分にひきよせるのではなくて」
 やや内気な微笑をうかべながら、
「まして自分が権力そのものになるのではなくて、ここ(机の上)に置いて、いわば権力を客観視して、・・・つまり実際主義でもって、権力から役にたつものだけをひきだせばいい、と思っているんです」
 といった。
 多年、そのことを考えてきたらしく、一気にのべた言葉がすべて体温を帯びていた。
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 ふつう、“ノギ偏”と呼ばれる禾(か)の字は、穀物の実って垂れるさまからきたという。
 以下は、私という字についてである。“ノギ偏”がつく。右側のつくりのムは古くは口で、囲むの意味。従って私とは、穀物を自分の取りぶんだけかこむことである。
 つまり、私とは、古代の小作農民が収穫の何割かを地主にさしだしたあと、残った自分の取りぶんをかこっておくというさまである。
 「このぶんは、ワタクシのものでございます」
 というのが私で、この解字ほど私の意味を明快に示したものはない。こrでもって、こんにちの法律上の私や取引での私が、よくわかる。
 私が明快なのに対し、公という文字は意味があいまいである。紀元前の『韓非子』では、公とは私の反対語だという。簡単すぎる。
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 私と公の関係は、むずかしい。
「立国は私なり。公に非ざるなり」
 と、福沢諭吉は、明治24年(1891)、「瘠我慢の説」の冒頭に書いた。資本主義の本質を示したともいえる。いまふうにいえば、“国家とは、民間人が私を追求することで興るもので、お上が国をつくるのではない”という意味になる。各個が企業をおこす、その総和が国家だ、ということでもある。
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